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秋田県大仙市公式ブログ

戊辰戦争と太田

今年は戊辰戦争から150年、そして明治元年から150年です。
太田地域の戊辰戦争にまつわる逸話を3つ紹介します。

その1「国見が原の戦い」
1868年(慶應4)1月3日に京都の鳥羽、伏見において始まった戊辰戦争は、やがて東北にも波及し、旧暦7月(現在の8月中旬)には秋田藩もこの戦火に巻き込まれ、秋田藩の3分の2が戦場となりました。
大仙市でも旧暦8月13日から9月18日(現在の9月28日から11月2日)までの1か月余りにわたり、角間川、花館、南楢岡、刈和野、峰吉川、福部羅、小種、境、国見地区で大激戦となりました。
岩瀬河原戦、生保内口戦と並んで「角館三大戦」の一つ「国見が原の戦い」として語り継がれる激しい戦闘が、太田地域の国見地区でありました。
この時戦死した角館軍監の竹村庫之丞(くらのじょう)の死を悼む供養碑が、県道角館六郷線沿いの桜バス停付近にあります。庫之丞は角館生まれの秋田藩士であり、角館軍の偵察役として戊辰戦争に参加。戦中、味方に危急を知らせようと国見を走っていた途中、敵兵に取り囲まれて腹部を撃たれ、37才の若さで命を落としました。深い傷を負いながらも敵兵に大刀を振るい、勇ましい最期を遂げたことが語り伝えられています。庫之丞の武功を嘆賞した村人が戦死した地に桜を植え、その武勇を後世に伝えようと供養碑を建てたそうです。
この地は現在「戊辰戦争の史跡(竹村庫之丞戦死の地)」として大仙市指定文化財となっています。
庫之丞の命日は旧暦8月23日、現在の10月8日にあたります。
供養碑には、今も地域の人たちによって花が途切れることなく手向けられています。

その2 「横沢村初代村長・倉田亦五郎」
のちに横沢村初代村長となった倉田亦五郎(またごろう)は戊辰戦争のとき17才。
太田町百年誌には「亦五郎は敵軍に内通したという誤解を受けたが、間違いであったことがわかり一命を救われた。戦禍を逃れるために東山に隠れ、40日間食事に事欠く生活をし、疲労困憊の末帰宅したが、一時『賊軍』とみなされたことから六尺桶数本の酒は飲み尽くされ、全く目もあてられぬ状態であったために、家運の再建には一方ならぬ苦心をしたという」とあります。
この写真は、戊辰戦争から50数年後の大正10年ごろの亦五郎家族です。前列中央にどっしりと構えているのが亦五郎、亦五郎の後に立っているのが養子の政嗣です。
倉田家は豪農で造り酒屋を営み、屋敷は3反歩(約3,000㎡)もあり、広々とした庭に囲まれた立派で大きな家だったそうで、この写真からも裕福な倉田家をかい間見ることができますが、戊辰戦争の大きな被害を受けていました。

その3 「秋田県民歌3番の歌詞」
「秀麗無比なる鳥海山よ~」で始まる秋田県民歌は、亦五郎の養子の倉田政嗣の作詞によるもの。今年は昭和5年10月30日の県民歌制定から88年となります。
戦前戦中の学校では、校歌とともに行事のたびに歌われていた県民歌は、軍国主義をあおる内容が含まれているとみなされ、終戦後、いつしか教育の場から消し去られました。
歌詞3番に「錦旗(きんき)を護(まも)りし戊辰の栄(は)えは 矢留の城頭 花とぞ薫る」とあり、戊辰戦争の際、明治新政府側に秋田藩が錦の御旗(みはた・官軍の旗)を掲げて戦ったことは栄えあることだと表しています。戊辰戦争のとき、秋田県内すべての地域が新政府側(官軍)だったわけではなく、一部の地域は旧幕府側(賊軍)でした。
こうしたこともあり、教育の場や公式の場では歌われなくなりました。
戊辰戦争から100年後の昭和43年、明治100年を記念して作られた「大いなる秋田」の第3楽章「躍進」に秋田県民歌が組み入れられました。「大いなる秋田」初演当時は、軍国主義の復活との批判をおそれ、歌のない演奏のみだったそうですが、やがて演奏とともに県民歌が「大いなる秋田」の中で歌われるようになりました。
戦前世代の県民歌復活の願いと、県民歌は戦争とは関係ない名歌であることが奇跡の復活につながったのです。

 

ちょうど150年前、そしてちょうど今の時期(旧暦の8月から9月)、戊辰戦争で東北の村々が戦場となっていました。
この「ちょうど」の節目にあたるこの時だからこそ、私たちの地域がこれまでどんな歴史をたどってきたのか、想いを馳せることもよいのでは。
秋の夜長に、町史や百年誌をひもといてみると、新たな発見があるかもしれませんよ。

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