公開日 2019年12月06日
更新日 2020年04月08日
法隆寺金堂壁画模写に3度挑む
法隆寺金堂は、昭和24年(1949)1月26日の火災で、解体修復のため取り外されていた内陣小壁の飛天を除き、すべての壁画が焼損しました。
皮肉なことに、空如の名が広く世に知れたきっかけは、金堂壁画の焼失した同年6月に、東京芝大門の協和銀行本店で「空如遺作法隆寺金堂壁画模本展」が開かれたことによります。
空如の金堂壁画模写は、明治40年(1907)から昭和7年(1932)まで、26年間に3度原寸大で模写を行い、3組の模写本が存在します。
空如が法隆寺金堂壁画の模写を志すきっかけとなったのは、明治初期に活躍した画工・桜井香雲の金堂壁画模写本を見る機会があり、香雲の仏画に対する姿勢と壁画自体の美しさ荘厳さに感銘を受けたためといわれています。その思いは「桜井香雲先生を憶う」という一文に記されています。空如は、香雲の模写本を手本とし実際に法隆寺金堂を訪れ、香雲が見落とした線や色彩などを補い模写を行いました。
空如が一生をささげた金堂壁画模写は、仏画家として最も円熟したころに始まり、現在のような照明設備も無い中、数十回に渡り法隆寺を訪れつぶさに模写し、真に迫るまで古色を吟味し、心身ともに艱難辛苦を乗り越えて金堂壁画の模写本3組を完成させました。
3組の模写絵は、空如没後、3か所に分蔵されます。大正11年(1922I)完成の1作目は、終焉の地、姪が経営する箱根湯本・吉池旅館(箱根鈴木家本)、昭和7年(1932)完成の2作目はリッカーミシン(現平木浮世絵財団)、昭和11年(1936)完成の3作目は生家鈴木家に所蔵されました。現在、1・3作目は両家の御厚意で大仙市に御寄贈いただきました。
模写絵の比較 ( 左 1作目 、右 3作目 以下同じ)
・1号壁画 釈迦浄土図
・2号壁画 菩薩半跏像
・3号壁画 観音菩薩像
・4号壁画 勢至菩薩像
・5号壁画 菩薩半跏像
・6号壁画 阿弥陀浄土図
・7号壁画 聖観音菩薩像
・8号壁画 文殊菩薩像
・9号壁画 弥勒浄土図
・10号壁画 薬師浄土図
・11号壁画 普賢菩薩像
・12号壁画 十一面観音菩薩像