鈴木空如資料調査研究事業
コンテンツ番号:2494
更新日:
法隆寺金堂壁画について
世界文化遺産・法隆寺には、世界最古の木造建築物である金堂・塔・中門があります。鈴木空如が模写した十二面の壁画は金堂外陣の壁を荘厳する壁画です。
金堂壁画は、中国の敦煌莫高窟に描かれた唐代の壁画と比較されますが、近年、莫高窟壁画よりも金堂壁画の図柄が整理され洗練されていると指摘されています。このことから、金堂壁画は唐の都・長安から直接伝えられた技法で描かれていることがわかってきました。金堂壁画は、当時の文化交流を知る第一級の資料であり、東洋美術の至宝でもあります。
壁画の制作時期は、7世紀末から8世紀初めのものと推定されています。十二面の壁画は、諸仏を描いた四面の大壁(釈迦浄土図・阿弥陀浄土図・弥勒浄土図・薬師浄土図、各高さ3.12m×幅2.67m)と八面の小壁(日光菩薩図・観音菩薩図・大勢至菩薩図・月光菩薩図・聖観音菩薩図・文殊菩薩図・普賢菩薩図・十一面観音菩薩図、各高さ3.12m×幅1.58m)からなります。
残念なことに、昭和24年(1949)の金堂の火災によりに壁画は焼損してしまいました。現在、私達が拝観している金堂壁画は、昭和42(1967)年に明治期の桜井香雲、大正・昭和期の鈴木空如の模写本などを参考資料として再現したものです。
その再現の方針は、「制作当初への“復元"」ではなく「焼損時への“再現"模写」をすることとし、焼損前に撮影したガラス乾板から和紙に図像の輪郭を印刷し、着色したものを木枠に貼り壁にはめ込んでいます。
空如筆 抜き写し(100点余りが確認されている)
法隆寺金堂壁画模写に3度挑む
法隆寺金堂は、昭和24年(1949)1月26日の火災で、解体修復のため取り外されていた内陣小壁の飛天を除き、すべての壁画が焼損しました。
皮肉なことに、空如の名が広く世に知れたきっかけは、金堂壁画の焼失した同年6月に、東京芝大門の協和銀行本店で「空如遺作法隆寺金堂壁画模本展」が開かれたことによります。
空如の金堂壁画模写は、明治40年(1907)から昭和7年(1932)まで、26年間に3度原寸大で模写を行い、3組の模写本が存在します。
空如が法隆寺金堂壁画の模写を志すきっかけとなったのは、明治初期に活躍した画工・桜井香雲の金堂壁画模写本を見る機会があり、香雲の仏画に対する姿勢と壁画自体の美しさ荘厳さに感銘を受けたためといわれています。その思いは「桜井香雲先生を憶う」という一文に記されています。空如は、香雲の模写本を手本とし実際に法隆寺金堂を訪れ、香雲が見落とした線や色彩などを補い模写を行いました。
空如が一生をささげた金堂壁画模写は、仏画家として最も円熟したころに始まり、現在のような照明設備も無い中、数十回に渡り法隆寺を訪れつぶさに模写し、真に迫るまで古色を吟味し、心身ともに艱難辛苦を乗り越えて金堂壁画の模写本3組を完成させました。
3組の模写絵は、空如没後、3か所に分蔵されます。大正11年(1922I)完成の1作目は、終焉の地、姪が経営する箱根湯本・吉池旅館(箱根鈴木家本)、昭和7年(1932)完成の2作目はリッカーミシン(現平木浮世絵財団)、昭和11年(1936)完成の3作目は生家鈴木家に所蔵されました。現在、1・3作目は両家の御厚意で大仙市に御寄贈いただきました。
模写絵の比較(左:1作目、右:3作目 以下同じ)
1号壁画 釈迦浄土図
2号壁画 菩薩半跏像
3号壁画 観音菩薩像
4号壁画 勢至菩薩像
5号壁画 菩薩半跏像
6号壁画 阿弥陀浄土図
7号壁画 聖観音菩薩像
8号壁画 文殊菩薩像
9号壁画 弥勒浄土図
10号壁画 薬師浄土図
11号壁画 普賢菩薩像
12号壁画 十一面観音菩薩像
法隆寺金堂壁画下絵目録
この目録は、法隆寺金堂壁画の下絵と考えられる作品100点の目録です。
※これまで、これらの作品は下絵と考えられてきましたが、鑑賞に堪える構成がなされている作品もあることから、単なる下絵ではない可能性があります。
抜書の意図は、法隆寺金堂壁画は描き込みが多く判然としないところを明確にし、金堂壁画の持つ芸術性を世に広めようと考えて制作されたものと思われます。