太田庁舎(昭和61年建設)の前身である太田村役場庁舎が、現在の地に建設されるまでの経緯を紹介します。
昭和30年3月31日、長信田村と横沢村が合併し、新村太田村が誕生。合併当時、当分の間は旧長信田村役場を太田村役場とし、旧横沢村役場を支所としました。
補助金等が全くない役場建設は、著しい財政難の中にあって大事業でしたが、村民の一体化、村職員の融合、そして何よりも効果的な行政運営を進めるためには役場庁舎の建設が急務でした。
このとき、合併後の役場を建てる場所は駒場野(現在地)と合併条件で決まっていました。横沢村では、合併後は役場と統合中学校を建てようと駒場野を田沢疏水事業地区から除外(約6ha)していました。
すんなりと駒場野に決まることになっていた役場の位置でしたが、永代、川口、東今泉、三本扇、横沢などの住民が堤東(つつみひがし 現在の太田体育館と横沢公園)に位置を変更しようとする運動を進めていることが役場設置条例を議会にかける直前に判明。また、旧横沢村の議員からも堤東に建てるべしと声があがり、議会に提案されました。
役場設置条例は、2/3以上の議員の賛成を得なければならない議決事項で、村執行部は非常にあわてました。
当時の鈴木孝治村長(故人)は、村の中央である駒場野に新庁舎を建てることは、将来的にも誤りがないと判断し、また駒場野に反対する議員にも理解してもらい、ことなきを得たそうです。役場設置条例が可決されたとき、議会では堤東事件を誰ともなく思い出して笑い、最後はみんなで大笑いして現在の地に役場庁舎の位置が決まったそうです。
庁舎の位置が決まり、昭和31年から2年がかりで庁舎を建設。
当時の長信田小学校の体育館が、6間に12間(約10.8m×21.6m)の大きさであり、それを目安に庁舎の大きさを決め(鉄筋モルタル造り、のべ172坪)、建設費は647万7千円で角館の荒木組が請け負いました。村の財政規模が3千万円程度の時代、役場建設は実に百年の大計でした。
そして昭和32年9月1日、太田村役場の竣工式と開庁式が行われました。
野原(駒場野)にポツンと役場だけが建っていましたが、役場建設後に向かいへ角館の鎌田陸雄さん(故人)が旅館を構えました。庁舎完成後、湧水防止のために敷地の周囲に掘割(水路)をつくり、昭和32年11月の寒い日に、鎌田さんから庁舎完成を祝っていただいた桜の幼木と、長信田森林組合からいただいた赤松を職員総出で庁舎前に植えたそうです。
現在、みごとな花をつける太田庁舎前庭の桜は、植えられて今年でちょうど60年。還暦を迎えたことになります。
鎌田陸雄さんの長男の陸廣さん(司法書士)は「小学4年生の夏休みに太田に引っ越して来た。当時は、野っぱらに役場と私の家が本当にポツンとあるだけ。まわりには何にもなかった。父は、将来にわたって何か残るものを、と考えて役場に桜の木を贈ったそうだ。太田に来て60年、毎年庁舎前の桜が咲くと、当時のことを懐かしく思い出す」と話してくれました。
太田庁舎を中心に半径4キロの円を描くと、太田地域全体がすっぽり円の中に収まります。もしも庁舎が堤東に建てられていたら、現在の太田地域の様子は違っていたかもしれない、などと桜の木は思っているかもしれません。
なお、堤東の地は現在、体育館、クラブハウス、野球場、テニスコート、交流プラザなどが建設されてスポーツパークとして整備され、隣接する横沢公園はスイセンや桜、菖蒲など花の公園として親しまれています。
この日、横沢公園の桜も満開となり、スイセンは見ごろを迎えていました。